「歴史」

下川の町に生まれて

2018.02.28

「森一、苦しくはないか? もうすぐ町の先生のところに着くからな」

奥深い山道をくだり、下川町の病院まで五里の道のり。リヤカーを引く父 久松の背中に「うんうん」と大きく頷く坊主頭の少年が、株式会社菊水の創業者 杉野森一でした。

大正14年8月11日、北海道上川郡下川町珊瑠(サンル)で、森一は杉野家の次男として産声を上げました。父の名は久松、母はフサ。森一の祖父にあたる徳松は飛騨国荘川村、現在の岐阜県高山市荘川町の出身で、五百年もの歴史と由緒ある光曜山照蓮寺(浄土真宗大谷派高山別院照蓮寺)の家系にあったため、僧侶になるのを嫌った久松は、知人を頼って山深い下川町へ開拓に入ったのです。下川に開拓の鍬が下ろされたのは、明治34年。岐阜からの団体25世帯が、最初に拓いた記録が残っており、翌35年にも岐阜からの団体が入植しています。

森一が生まれた頃の北海道は、明治天皇による蝦夷地開拓の詔から半世紀ほど経っていましたが、道央、道北での開墾作業はまだまだ厳しさを極めていました。鬱蒼と大木が生い茂るなか、深く根を張った木々を起こして、わずかな土地を畑に変えていく時代。ときには、炎天下での過酷な作業に気を失って倒れるフサを、久松が水をかけては励ましながら、手を休めることなく畑仕事を続けたそうです。森一は、そんな両親のそばで、懸命に働くことの大切さを心に刻みながら育ちました。

ところが森一が小学4年を迎えたときに、岐阜の郡上八幡(現在の郡上市)で暮らす叔母のもとへと出されます。叔母の国田家には子どもがいなかったため、次男坊の森一を養子に迎えたのです。お寺の僧侶になることを拒んだ久松の息子が来たとあって、本家一同が大喜び。とうとう照蓮寺から八幡の小学校へ通うことになりました。八幡小学校での森一は全校生徒の前で紹介されるほどの有名人。教室への出入りにも、きちんと礼をする規律正しさと物珍しさも手伝って、学舎の仲間たちに「北海道の熊」と呼ばれる人気者になりました。

順調に思われた岐阜での生活ですが、森一の体に異変が起きます。当時、不治の病と言われた結核にかかったのです。里親である叔父からの感染でした。「フキの根を潰して飲んでいる」。そう北海道の両親へ手紙で知らせると、父の久松が飛んできました。フキの根は、かつて結核の薬として使用されていましたが、我が子を心配した久松は、やはり自分の手元で看病することにしたのです。

下川町の中心部へは約20キロ。森一の住む珊瑠(サンル)から結核の病院まで、久松は来る日も来る日も通いました。まるで遠くへ養子に出したことを詫びるかのように、森一をリヤカーに乗せ、病気が完治するまで通院し続けたのです。長い道のりを言葉少なくリヤカーを引く父の久松。力強い大きな背中を見つめながら、父の深い愛情を感じた森一でした。

次回は、成人した森一が自分の道を歩み始めるまでをご紹介します。

【写真:創業の地、下川町にあった杉野製粉製麺工場】

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