「歴史」

激動の時代を生きて

2018.06.20

 結核の大病を両親の看護で乗り越えた杉野森一は、下川小学校を卒業後、新設したばかりの名寄の農業高等学校へと進学しました。真面目に学ぶ森一は、2年生で学級の代表である級長に選ばれます。一度は里子に出した我が子の成長を、密かに案じていた父の久松は男泣きをして喜んだそうです。

その頃の日本は、戦争の真っ只中。優秀な若者を確保しようと、旭川の陸軍師団が幹部候補生を捜しにきていました。当時、旭川の第七師団と言えば、北辺の守りを預かる重要な拠点。若く愛国心に燃える森一は2年の後半には自ら軍へと志願し、陸軍飛行隊の一員となって3,000名の仲間とともに九州の大刀洗へと赴きました。沖縄、満州と移動を続け、特別攻撃隊として敵へと突っ込む訓練を重ねた日々も、敗戦と同時に終わりを告げます。満州に残された森一は、3人の仲間と戦闘機に乗り日本へ戻ろうとしますが、不時着し失敗。炭鉱や屋台の下請けで餅つきなどをしながら何とか命をつなぎ、日本への引き揚げ船に乗って帰国することができました。終戦から2年が経過した昭和22年のことでした。

 下川町の珊瑠へ戻った森一を、両親の久松もフサもとても喜んで迎えました。大勢の若者たちが、戦争の犠牲になったのです。再び息子の笑顔を見られることは、とても幸せなことでした。しばらくは家業の農業を手伝っていましたが、森一は次男坊。同じく長男が戦地から無事に帰還できたのを機に、新たな道を探し始めます。

戦後、日本は危機的な食糧難に陥っていました。田畑が荒れ、主食となる米が収穫できなかったのです。国民はみな飢餓状態。一刻を争う事態に、アメリカ合衆国も乗り出します。占領地救済政府資金「ガリオア資金」による、食糧の提供でした。日本国政府もこの措置を受け入れ、大量の小麦を米に代わる国民の主食として輸入したのです。しかし、進駐軍が配給する小麦粉は、フスマと呼ばれる表皮の部分が混ざったもの。バサバサとして口当たりが悪く、粗末なものでした。もっと美味しいものが食べたい…。復興の経過とともに、人々の要望も変わっていきます。森一はこれにかけてみることにしました。配給小麦粉を預かっては、四層のふるいにかけてフスマを除去し、おいしい小麦粉へと製粉する。それだけで、進駐軍の小麦粉とは比べものにならないものになるのです。きっと周囲からも喜ばれるに違いない。けれど、粉にしただけでは食卓にのぼるまでに手間がかかってしまいます。

「せっかく製粉したのだから、麺にしてはどうだろう」。

昭和24年12月。下川町にある空き屋の2階を借り、屋根裏部屋に手回しの製麺機を設置して麺づくりをスタートさせました。ここに創業70年を迎える「菊水」が産声をあげたのです。

次回は、麺づくりにかける思いと当時の苦労をご紹介します。

激動の時代を生きて